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自室の窓がこつんと鳴った。待ち望んでいた合図だった。急いで窓辺に駆けつけて、カーテンに潜り、窓を開く。少し下を見下ろすと、窓の近くに立った木の半ばあたりにミツキ君が居るのが分かった。手を伸ばすと、ミツキ君が僕を見上げて笑う。微笑み返して、預けられた手を思いっきり引っ張った。
「こんばんは」
窓辺に手をかけて、うまく自分の体を持ち上げたミツキ君は、そのまま上手いこと窓辺に腰かけて、僕に顔を向けて挨拶をした。久しぶりにミツキ君に会えたことが嬉しくて、僕の口からははしゃいだ声が出る。
「待ってたよ! 来てくれてありがとう」
「うちの母親もなんだかんだ厳しいからさ。中々抜け出せなくて」
「ううん、いいの。会えただけで嬉しいよ」
「うん。俺も嬉しい」
ミツキ君が優しく笑ってそう言う。じわじわと気持ちが昂った。顔が熱くなりそうで、それを誤魔化すために、急いで別の話題を探す。ミツキ君が未だ窓辺に腰掛けたままなのに気付いて、ベッドからクッションを下ろした。
「ああ、ミツキ君ごめん。どうぞ上がって。そのままの体勢じゃ辛いでしょう」
「大丈夫だよ。それに、万が一お前のお母さんがここへやってきたりしたら、急いで逃げなきゃいけないだろ。俺はこのままこうしてるよ」
ミツキ君は何でもないことのようにそう言った。
ミツキ君と初めて出会ったのは、僕が今よりずっと小さい時、近所の公園でのことだった。初めて会う引っ込み思案な僕にも、ミツキ君は気を配ってくれて、遊び仲間に加えてくれた。友達付き合いが苦手で、家の中で本ばかり読んでいた僕にとって、ミツキ君は神様みたいな存在だった。それから、公園へ行くたびに遊んでもらえるようになって、僕もだんだんと外で遊ぶことの楽しさを覚えた。
ミツキ君は格好良くて、大人っぽくて、頭が良くて、優しくて、だから僕と一つしか年が違わないことを知ったとき、僕はとても驚いた。もっとずっと年上の人なのだと思っていた。
ミツキ君と比べると、自分のちっぽけさが嫌になった。自分にはなんの取り柄もないような気がした。でもミツキ君はそんな風に卑屈になった僕にも優しくて、僕がそうして落ち込んでいると必ず、「本の話を聞かせて」と僕に言ってくれる。幼い頃は、自分がミツキ君の求める話を出来ることが嬉しくて、得意満面になっていた。時間が経って、ミツキ君のそれが優しさゆえの発言だろうと感づいてからは、また卑屈になったりもしたけれど、今はもう、そんなことは取っ払って、自分の得意な分野を頑張ることで、なんとかミツキ君に追いつきたいと思うようになっている。
出会ったその時からずっと、ミツキ君はあこがれの人だった。ミツキ君に喜んで欲しくて、ミツキ君に褒められたくて、ミツキ君みたいになりたくて、頑張った。僕にとってなくてはならない人だ。
「でもこうして窓辺で話すの、なんかロミオとジュリエットみたいだね。前に話してくれたじゃん。『あなたはどうしてロミオなの?』ってやつ」
ミツキ君がそんなことを言う。自分のした話を覚えてくれていた嬉しさとか、僕とのことをロミオとジュリエットに喩えてくれたことへの気恥ずかしさとか、そういうことが一瞬胸を過ったけれど、一番胸に重く圧し掛かったのは、そのあまりに有名なセリフのことだった。
「僕はミツキ君の名前も大好きだよ。ミツキ君のおうちも好き。ミツキ君のお母さんのことも好き。ミツキ君が、ミツキ君で無かったらいいなんて、僕はそんなこと思わない」
中学受験のために塾へ通い始める段になって、母親は僕にとんでもないことを言った。「遊ぶより勉強なさい」「特にあの子とは遊んじゃだめ」「あんな母親の子供なんて、ろくでもないに決まってる」。その言葉を発した目の前の人間が、僕の優しい母親であるということは、何かの悪い冗談のように思えた。けれどそれは全く冗談などではないことを、僕はその後さんざん思い知らされることになる。
引き離されるずっと前のこと、公園の遊具に腰掛けながら、「ミツキ君と離れちゃったら、僕はとうていやっていけないよ」と冗談めかして言ったことがある。ミツキ君は意外にもそれに真剣な目をして、「離れちゃったら、会いに行くよ」と答えてくれた。
ミツキ君は少しの間呆然とした顔をして、それから一瞬、やりきれないみたいに笑ってから、うつむいた。
「ミツキ君?」
「ううん。何でもない。何でもないよ」
ミツキ君はそう言って、顔を上げた。そして、今までに何度も見た、真剣な表情をしてみせる。
「今日はさ、話があってきたんだよ。大事な話」
「何?」
「たとえ話と、現実的な話を一つずつ」
ミツキ君の口がゆっくりと動く。
「綺麗な月が出てるとするだろ、でもそこに突然雲がかかる。次第に細かい雨が降り出して、あたりは真っ白けになって、とうとう月は見えなくなる。でもそれは、月が消えたってことじゃない。月はずっとそこにある。雲が出たり、星が動いたりすることで、見えなくなってしまうだけだ。そうだろう?」
「うん」
「多分、俺たちはそのうち会えなくなる。こうしてこっそり会いに来ても、いつかはきっと見つかって、もっと厳しく隔てられるようになる。だんだんお前も勉強が忙しくなって、俺も中学が始まって、どんどんお互いを忘れていく」
「そんなことない」
そんなことないよ、と繰り返した。そんなことあるわけない。僕がミツキ君のことを忘れるなんて、そんなこと、起こるはずがない。
怒った顔をしていたかもしれない。泣きそうな顔をしていたかもしれない。ミツキ君が僕に手を伸ばす。
「おいで」
ここで僕が体を動かしたら、何かが決定的に変わってしまいそうな気がした。しばらくの間動けなかった。それでも、ミツキ君の手はずっと、僕に伸ばされたままだった。
観念して、ミツキ君の方に身を寄せると、思いっきり抱きしめられる。
「ミツキ君?」
「お前は本当に賢いよ。きっとすごい人になる。お前のお母さんが言うこともあながち間違いなんかじゃなくて、きっと、そもそも俺たちは種類の違う人間だ。なにかの間違いで、こんな風になっただけだよ。そもそも一緒に居られるような二人じゃない」
きつく抱きしめられていて、反論の声が出せなかった。耳に聞こえるミツキ君の声が、あんまり優しいから、僕はなんだか泣きたくなる。
「でも、一緒に居られなくたって、お互いの人生から相手が消えるわけじゃないんだ。別にお前も俺も、死ぬわけじゃない。隠れて見えないだけで、ずっとそばに居るんだよ」
ゆっくりと体が解放される。ミツキ君が窓の外を見た。
「今夜は雨の予報があるんだよ。濡れる前に帰らなきゃ」
「ミツキ君」
「……今まですごく楽しかった。お前は疑ってかかったけど、お前がする本の話は、いつもすごく面白かったよ。俺は馬鹿で、本なんてあんまり読めないからさ。お前が話してた面白そうな本を借りて読んでみようと思っても、文字を追ううち億劫になって、なんでこんなにつまらないものが、お前の口から出ると面白いのか、いつもすごく不思議だった」
目の前がぼやけていく。
「じゃあね。さようなら。……また遊ぼう。いつものところで」
それだけ言い残して、ミツキ君は窓からふわりと落ちた。木を伝う音と、離れる足音、しばらくして聞こえてきた雨の音、そのどれもが遠かった。最後のミツキ君の、涙に濡れた声ばかりが、いつまでも耳元で鳴っていた。